昨日から騒がれている某サックスブルーの日本代表選手の話題ですが、スポーツ紙の一面に非常にわかりやすい写真まで載せられてますね。
日刊スポーツでは、次のようにそのときの状況を記している。
偶然に生まれたハンド、審判の誤審で、横浜、磐田による大一番の決着がついてしまった。ロスタイム直前の後半44分。右サイドから名波の絶妙なFKがゴール前に飛び込む。ペナルティーエリア中央では、福西が日本代表でともにプレーするDF中沢と競り合い、ゴールを背にしてジャンプ。上げた福西の右腕の下に中沢のボンバーヘッドが入ったこともあり、福西の手が押し上げられた。その右手甲に飛んできたボールが当たり、高く弾んで弧を描くようにゴールイン。
福西パンチV弾!W杯審判見逃す/J1(nikkansports.com)
もうゴールと決まっちゃったものは覆らないだろうし、納得いかないだろうけど諦めるしかないはずだ。
オシム監督なら「それまたフットボールだ」と格好良く語ってくれそうだけど。現に岡田監督も「失点に負けた原因を求めるより、チャンスを生かせなかったのがいけない」と言っているし。
そんな騒動を別の角度から見ているコラムがあった。日刊スポーツのサイトにある後藤新弥氏のコラムだ。
こんな風にも書いていたりする。
けれど、こうした「事件」が(再発防止への努力は当然必要だが)一種のユーモアを交えながら終わっていくとしたら、スポーツは人生の中で、明確な存在意義を持つのではないだろうか。
社会も会社も、私利利欲や卑怯卑劣の見本市だ。例外はない。だから正義感の強い若者には耐えられない局面もある。そうでなくても、人生は悲劇と悲運に満ちている。けれどそれに怒りながら、泣きながら、どこかで笑いにまぶして波をやり過ごすだけの強さが、人間には必要だ。知恵が、必要だ。
そういう観点からすると、「誤審」はドラマだ。誤審が物語るものは、限りなく奥深い。
うーん、こういう風な見方もあるんだな。
何かあっても、さらっとこういう事が言える大人になりたいよ。そのためには色んな経験を積んで、色々と悩んだり考えたりしなければならないのかな?
一朝一夕でなれるわけでもないから。
あと10年後ぐらいにはその領域に近づけるよう、ちょっとずつ何かやっていこう。